ようこそ、中国上海!
中医薬、世界へ広がる

海上会客厅

みずほ銀行中国董事長の岡豊樹氏:中国金融業界の改革開放と伴に歩む

2019年 7月 11日9:32 提供:東方網 編集者:王笑陽


 当時の外資銀行にとって、人民元の取り扱いは悲願とも言えた。それは当時中国に進出した外資銀行の業務内容が、外貨の取り扱いに制限されていたからであり、このため、中国人民銀行が外資銀行に対する人民元業務資格開放を発表すると、各国の外資銀行ではいずれも最初の認可を取得したいと熱望した。人民元業務資格取得の重要性に関して岡豊樹氏は、「外貨と人民元は車の両輪です。当時は世界が最も注目する市場でした」と述懐している。

 1996年12月31日は岡豊樹氏にとって忘れられない日だ。当時の上海市の趙啓正副市長が、日本興業銀行に外資銀行第1号として人民元業務資格を許可することを発表したのである。

1995年、当時の日本興業銀行の黒澤洋頭取と、中国人民銀行行長(頭取)を兼任する朱镕基国務院副総理の会談


引越し:虹橋から陸家嘴へ

 1997年は銀行にとっても岡豊樹氏個人にとっても、記念すべき年だ。3月に長男が生まれ、同月23日、日本興業銀行の上海支店は虹橋にある国際貿易中心から、浦東の陸家嘴に引越し。24日には人民元業務開業式が行われた。

 「開業式の日に、浦東新区の方々、それから中国人民銀行の方々、あとは解放日報、新華社などメディアの方々、皆さんが一同に集まられて、今でも非常に鮮明に印象に残っています」。人民元業務の開幕式を思い出すと、岡氏には当時の喜びと興奮がよみがえってくるようだ。

 実は、1997年にみずほが外資銀行の第一陣として人民元業務資格を取得するまでには、1990年に中国政府が上海浦東新区の開発を決定し、1992年に上海に国際金融センターを建設するという国家戦略を立てた経緯がある。当時、中国の近代的大都市を目指していた上海は、国の経済、金融、貿易、海運の中心地として位置づけられており、その中で浦東新区を金融機能エリアとする構想があった。そのため浦東新区には、中国で初めて、唯一「金融」の名を付けた開発区である陸家嘴金融貿易区が設立され、中国の金融開放の重要な舞台建設が進んでいたのだ。

 岡豊樹氏によると、みずほ銀行の前身の一つである富士銀行も、まだ浦東新区にオフィスビルが一つも建っていなかった1995年に浦東に出店しており、浦東に進出した初の外資銀行となっていた。そして1997年に浦東に引越しした日本興業銀行、シティバンク、HSBC、スタンダードチャータード銀行などの外資銀行に対して中国人民銀行が人民元業務を認可したのは、そのあとの話となる。

 2007年、みずほ銀行は日系銀行としては初めて中国で現地法人銀行を設立し、同時に陸家嘴を本店所在地としたのである。


パンダ債:もう一つの「第一号」

 2014年、岡豊樹氏は初めての中国赴任から香港や北京勤務を経て20年目に6回目の中国赴任、3回目の上海勤務に赴いた。この20年間でみずほ銀行は人民元業務認可に次いで、「第一陣の外資系銀行現地法人」を設立、さらには「第一陣の円元直接取引マーケットメーカー資格」の認可を第一陣として取得するなど、常に外資銀行の「第一陣」として中国市場を牽引し続けた。そして岡氏は今回の勤務期間中に、みずほが中国業務でもう一つの「外資銀第一号」を達成するのを見届けることになる。